倣古乾隆蝋箋 24cm×16cm

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倣古乾隆蝋箋(ほうこけんりゅうろうせん)
24cm×16cm(12色)
※ セットによって若干の色合いの異同はご了承ください。

紙になんらかの加工を施してから使用することは、紙の使用が広まった後漢時代に既に行われていました。また紙に蝋(蜡)を塗布(加蝋)することは、魏晋南北朝の昔から行われていたといわれます。蝋を紙の繊維に浸透させることで、紙の透明度は高くなります。こうして出来た紙は、原本を敷き写しにして模本を作ることに利用されました。また蝋の塗布は紙の質感を本質的に変え、さまざまな顔料の定着を可能にし、滲まず滑らかな表面は、緻密な線描を可能にしました。
唐代にはいると華やかな色彩と多様な装飾を施した蝋箋がつくられるようになり、平安朝の日本へも輸出され、平安貴族たちの関心の的となりました。中国では唐代における装飾性の高い蝋箋を使用した例が現存していませんが、日本の平安貴族の筆跡にはその豊富な事例をみることが出来ます。
南唐の烈祖は文事に深い心を寄せ、三千巻の書物を集めた書庫を作り「澄心堂」と名づけました。のちに南唐五代目の李想は宮廷で精良な加工紙を造り、これを「澄心堂紙」としました。南唐が滅んだ後も、宋代の士大夫達にとって澄心堂紙は李廷珪墨と並んで垂涎のまととなり、歙県などでは澄心堂紙の倣古紙が造られました。
明代にはいって永楽帝が宮廷で高麗扇を倣製させて士大夫に下賜したことから、士大夫の間で扇面が大流行しました。扇面を造る材料として、蝋箋や蝉衣宣、洒金箋などの加工紙の製法も発展を遂げたのです。明代後期の江南経済の過熱と日本からの金の流入により、カットした金箔を貼ったり、金粉を散らした豪華な蝋箋が多く造られるようになりました。
時代が下がって清朝にはいって、乾隆帝は南唐の「澄心堂紙」に倣(なら)い、内務府に命じて華麗な加工紙をつくらせました。その多くは蝋箋に描画彩色を施した豪奢な加工紙で、いわゆる「倣澄心堂紙」と呼ばれる紙です。
清朝末期から民国時代にかけて、民間でも多くの蝋箋が造られるようになり、明治時代の日本へも多く輸出されましたが、量産に反比例して品質の劣った紙も多く造られるようになりました。
しかし清末からひろまった生箋の使用におされ、手間がかかり高価な加工紙は徐徐に市場から影が薄くなってゆきました。戦後の日本の書道界が生箋の大量使用をもっぱらとしたため、中国でも製造に時間のかかる加工紙の生産は衰退し、製法も喪われてゆきました。

上海福州路に店を構える博印堂の主人は、喪われた蝋箋の製法に心を留め、製法を伝える老名工を探し出して工房を構えるにいたりました。およそ二年間の試行錯誤の後、昔日と変わらぬ材料と工程をかけ、清朝の宮廷で製せられた粉蝋箋の復元に成功したのです。
この「倣古乾隆蝋箋」は、乾隆帝の作らせた「倣澄心堂紙」の製法に倣い、伝統的な製法、材料によって作られた粉蝋箋です。着色はすべて鉱物顔料や粉末珊瑚などの天然材料、漢方薬によっておこなわれています。平安朝の日本人が好んだ柔らかな色調が特色です。純度の高い金粉を散らしておりますので、歳月の経過によって生彩が損なわれることはありません。

滑らかに加工された表面は運筆を妨げることなく、かつ濃墨の定着の良い紙です。蝋箋の光沢を生かすには、精良な油烟墨が適しています。仮名の料紙や小楷、詩箋、題箋などに御使用いただければと思います。
定価 8,200円(内税)
販売価格 8,200円(内税)
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